京西陣菓匠宗禅が京町屋にこだわる理由

私は幼い頃から先代に「男と生まれたからには、
何か文化を残せ」と言われて育ちました。

その影響もあり、自然と創業時より菓匠宗禅では
「本物の技・味を追求しより良き文化を後世に継承
する」事を使命として参りました。

ですから文化という二文字にこだわり続ける以上、私の中では、本店を構えるのは交通量の多い道路やガラス張りのモダンな店では私の想いを達する事は出来ないと頑なに信じておりました。

その為、当初より本店の地を捜し求める時でも、
京町屋以外は考える事は有りませんでした。

真夏のとても暑い日、妻と二人で流れる汗をぬぐいながら、西陣の町を歩き回り空家を探す日々が続きました。
何も無い若い二人でしたので時には「君らに家を貸すほどうちは貧乏していない」と怒鳴られた事も有りました。

しかし私には「自分の掲げる使命を達成する為には京町屋しかない」との強い信念がありましたので、それ程のことでへこむ事など無く、来る日も来る日も空家を探しては「この家を使わせて欲しい」とお願いしては、断られる。またお願いしては、断られるという日々が続きました。

そして遂に今までの努力が実を結んだのです。私の熱い想いをいつものように家主さんに懇々と語らせて頂くと「気持ちは良くわかった。そしたらやってみなはれ」と言って下さったのです。

突然の訪問にも関わらず、更には信用も何も持たない二人を信じて頂いたのです。

今でも家主さん、また町屋探しに力をお貸し頂いた町屋倶楽部の皆様には心より感謝致しております。

しかし喜んだのもつかの間、まだ問題は残っておりました。それは古い町屋を再生する為には、今様の店舗を改装するよりも3倍以上のコストがかかったのです。

また人通りの少ない、人目につきにくい古い町屋でしたので「なんで好き好んでこんな古い建物を使うねん?」とか「こんな所で商売が成り立つ訳が無い」と多くの人々に反対されました。

しかし信念を中途半端に曲げるくらいならやめる方がましだと思っていましたし、それらの反対に屈する程の弱い想いではありませんでした。

そして今、お蔭様で京町屋を用いた本店には、お客様が新しいお客様を連れて来られます。

それは口コミと紹介が広がり順調に夢を実現させて頂いております。

私が京町屋にこだわる理由は「日本古来よりの住居から、より良き文化を発信するとともに、日本の住居の文化をも後世に伝え残したい」との想いからなのです。

菓匠宗禅が西陣織にこだわる理由

京西陣菓匠宗禅にとっての美味とは「美しさ」と「おいしさ」が融合されたものであると考えます。  

西陣織の「美」と京のあられ・おせんべいの「味」とを融合する事により真の美味しさを創り上げる事ができるのです。

創業以前あられ、おせんべい業界は不況やまた大手メーカーの価格破壊や、効率化を第一と考えるためできた粗悪品の流通により、人々のあられ、おせんべい離れが急速に進みました。

その結果、共に競い、本物を作り続けてきたおかき、
あられ屋がのれんを守る事ができず、次々と店をたたみだしたのです。
その世情の中、私自身、妻と結婚が決まり、将来について不安を感じだすようになりました。

「このままでいいのか?」と迷う私に、京都で420年以上続く老舗料亭を営む義父が「西陣は今大変らしいけど負けずに頑張っているので一度勉強して来い」と言われたのです。

すぐに私は妻と西陣織の伝統工芸師の方を訪ねて会いに行きました。その工芸師の方は私に西陣織の素晴らしさを、熱く語って下さいました。そして最後にその方はキリッとした目で、
「どんなに不況でも本物を作っていれば必ず生き残る。

これからは本物だけが生き残る時代だ」と教えて頂きました。

その一言で私の迷いは消え去り「よし、私もこれからの人生をかけ、伝統と技術が息づくこの西陣で、本物にこだわりながら、京のあられ、おせんべいの技を後世に継承していこう」と
決心がついたのです。

菓匠宗禅が京のあられ、おせんべいで西陣織を表現している理由は、真の美味を追求し、その時工芸師さんに教えられ魅了された西陣織の美しさ、素晴らしさを、一人でも多くの方に伝える事により、西陣織の伝統と文化をも伝え残したいとの想いからなのです。

京西陣菓匠宗禅が子供たちの手焼体験を受ける理由

京西陣菓匠宗禅本店には年間、多数の子供たちが体験学習に訪れます。あられ、かきもち、せんべいの歴史、製法を学び、自分で焼いたおせんべいを味わうのです。

初めて受けた体験学習での出来事。

地元西陣の小学生男女七人が体験学習に訪れました。

まず私が子供たちに「あられって何から作られるのか知ってる」って聞いた時「いもとか、何かの粉とか、塩」との子供たちの返答に驚愕したのです。
さらに続けて「あられなんて食べない」とか「ポテトチップの方がいい」とか「なんでそんな大変な事やるの」との子供たちの声を聞いた時、テレビゲーム世代の今の子供たちは、私の子供の頃とは感覚が違うんだと寂しささえ感じたのでした。

しかしあられやおせんべいの素材の違いや製法の違い、また菓匠宗禅としてのこだわりや上技物処としての責務についてを順に話していくうちに、子供たちの態度が変わってきたので
す。

そしていざ手焼体験。子供たちは目をキラキラと輝かせながら、手が熱いのを我慢し、せんべいを焼いているのです。その後自分で焼いたせんべいを食べながら「美味しい」と満面の笑みを浮かべていました。そして最後に「手の込んだものの大変さと素晴らしさが分かった。

これからはいっぱいあられを食べます」と言うのです。

それらの光景を見て私は「子供たちは何も変わっていないんだ。子供たちは何も悪くない。ただ単に今の大人が子供たちに何も教えられなくなったのだ」と気付かせられたのでした。

私はその日以来、地道ではありますが、コツコツと子供たちに本物の技・味について説いています。

そしてその事が菓匠宗禅のみならず業界全体の活性化につながると共に、こうして少しづつではありますが、より良き文化が継承されていくのだと信じているのです。
そしてまた、今日も菓匠宗禅本店では子供たちの笑い声であふれています。

京西陣菓匠宗禅由来

京西陣菓匠宗禅本店は、伝統ある西陣織の町にあります。その地名は応仁元年(1467年)に山名宗全公が構えた事から由来します。

菓匠宗禅の理念は宗全公が時の関白一条兼良に言われた「例」という言葉を「時」と置きかえる。つまり、古い物事に執着するだけでは無く、今の時をも大切にし、新しい時代の移り変わりに応じて変化していく。

その事がまた、次の時代の先例となり、やがて文化として受け継がれていくと考えておりま
す。

それは、おかき屋の四代目として生まれた私が京西陣菓匠宗禅を創業するに至った事につながるのです。

創業前のあられ業界をお話すると不況や、大手メーカーの価格破壊により次々とこだわりを持つかきもち、あられ、おせんべい屋が次々と店をたたんでいました。さらに世の中の風潮は、オートメーションによる効率化が善とされ、手間、暇をかけ物を作りだす職人意義が薄れていく社会だったのです。

また文明が進み、西洋化が進むにつれ、日本古来より育まれてきた日本の素晴らしき文化や伝統でさえ軽薄視される世の中に不安さえ感じていました。

これから生まれて来る子供たちのために、そして私が生まれたこの国のために、「このままでいいのか?」「何か私に出来る事はないのか?」自分自身の将来においても混沌とする中、ある日、西陣織の伝統工芸師さんから教えられた一言に感銘を受け、独立を決心したのです。

それは「どんな不況でも本物を作っていれば必ず生き残る。これからは本物だけが生き残る時代だ。」との事でした。

だからこそ私は本物の違いの分かる西陣にて伝統と技術を息づくこの町で創業したのです。

またその時私にさらなる勇気を与え、奮い立たせたのが宗全公が言われた、「例を時と置き換える」という言葉でした。

つまり「例」が代々受け継がれてきたのれんを守る事だけに執着するだけで無く、「時」独立して新しい事に挑戦する。その事が又未来へ受け継がれ、素晴らしき文化になっていくのだと感じたのです。

そこで感銘を受けた山名宗全公の名を頂き、さらにわび、さびという禅の心。

日本の良き文化をも受け継ぐとの意を込め、「全」の字を「禅」と置き換え宗禅と名付けまし
た。
京西陣菓匠宗禅は、「文明が進化し、職人の意義が薄れてゆく現代社会において、本物の技・味を追求し、後世により良き文化を継承する」事を使命に掲げ、日本唯一の上技物あられ処としての責務を全するとともに、時代に迎合するのでは無く、これからも「文化」という二文字にこだわり続けていく所存でございます。

菓匠宗禅の和歌とは

「見わたせば 柳さくらを こきまぜて 宮こぞ春の 錦なりける」

京西陣菓匠宗禅のすぐそばに雲林院というお寺があります。雲林院は淳和天皇の離宮で大徳寺の元となったお寺です。このうたは僧正遍昭の子の素性法師が雲林院にて詠まれたと伝えられており、春の京の都を遠くから見渡すと、緑の柳とピンクの桜が混じり合い、京都そのものが錦(西陣織)の織物のようであるという意です。

菓匠宗禅は西陣織と同様に、京を代表する「菓匠」であり続けたいとの店主の強い意志により、あえてこの和歌のみを包装紙や商品の小袋に用いております。

上技物あられとは

上技物あられとは「最高峰の技・味を持つあられ」だけに許された称号です。

初代天皇神武天皇が米作りを広めて以来、上技物あられの主原料となるもち米は、日本国の神事において欠かすことのできない高貴な食物となりました。

またあられは正月に神様にお供えされる鏡餅から由来し、日本三大随筆の一つである徒然草に登場することからも日本元来の菓子として、また上流階級の嗜好品として重宝されてきました。

一つ一つのあられに美しい紋様をほどこし形どる上技物あられは、迎賓・献上菓子として古来より珍重されてきました。

見て楽しみ、食して楽しむことのできるこの上技物あられを現在創ることができますのは、日本で唯一京西陣 菓匠 宗禅のみとされております。

京西陣菓匠宗禅の字体とは

「京西陣」の字体は古来より使われております字体であります。西陣にある京町屋で古き良き文化を伝え残していきたいという店主の想いを表現致しております。

「菓匠宗禅」は斬新な字体であり、日々立ち止まる事なく、挑戦し、新しい文化を創造していくという想いを表現致しております。この二つの強き想いを一つに重ね、工芸家 木村良和先生により、表現して頂きましたのが菓匠宗禅の字体となっております。

京西陣菓匠宗禅の紋とは

京西陣菓匠宗禅の紋は花びらが空に舞う桜です。

ある日、山名宗全公は身を隠される前に、孫の政豊を呼び寄せ、波乱万丈の人生を桜に例えて語りました。そして話終えた後、好きな桜が見たいと障子を開けた時、空一面に美しく老桜の花が舞っていました。

その桜を見て宗全公は素晴らしき一生涯を振り返るとともに、自らの人生を桜に重ねました。

菓匠宗全の紋は宗全公がその時感慨深いおももちで障子越しから見たであろう空に舞う桜を京の
名工、村井紀炎先生に表現して頂いたものでございます。

その日は、障子を開けると午後の春陽が柔らかく降り注ぎ、庭の手前の心字池には幾平かの花びらが浮かんでいました。

青味を増した築山の叡山苔にも螺鈿を散りばめたように落花が光り、錆色の煉堀越しに姿をのぞかせる数株の老桜は時に吹くそよ風に幾平かの花片を託して禅苑を荘厳していたと伝えられています。

―物語り山名氏八百年より−

宗禅たより 倶楽部西陣を発信していく理由

昨今、テレビやラジオでは「現在は家庭や地域社会でのコミュニケーション欠落の時代」であるとよく見聞きします。
また、青少年による犯罪のニュースや残虐な事件のニュースを見ると胸に迫る思いがこみ上げます。 

何かの歯車がおかしくなっているのか・・・。

そういえば、私たちが子供の頃を思い出してみると地域には必ず怖い大人がいました。何か悪いことをすると必ず「コラッ!!」と怒鳴るおっちゃん。
学校からの帰り道、必ず「おかえり」と声をかけてくれる近所のおばちゃん。
今振り返ると、私たちは地域社会に温かく見守られ、教え育てられていた気がします。

また、私たちが子供の頃は学校が終わると急いで家に帰り、すぐに公園や学校に集合し、友達と野球やサッカー、バスケットボールにドッチボール、そしてキックベースとみんなで遊んだものです。

しかし最近、町でよく目にするのは子供2,3人で何かの会話をするのでもなく、ただ黙々とゲームをしているのです。 せっかく友達と集まっているのに。

そしてまた、テレビやラジオでは「コミュニケーションがとれない子供が増えている」と報道されています。

私は犯罪に手を染めてしまった青少年たちは、文明化社会の犠牲者ではないかと思うのです。

だからこそ、「宗禅たより」や会報誌「倶楽部西陣」を通して、人のぬくもりや想いをお届けしたいと考えるのです。

小学校の時に習った、黒い一匹の魚と赤い魚たちが集まって大きなマグロにうち勝つ「スイミー」のように。一人の力は小さいですが、集まると大きなパワーになるのです。 そう、坂本龍馬や西郷隆盛らが活躍した明治維新のように、世の中を変える程のパワーになると私は信じています。

ですから、私たちは倶楽部西陣というコミュニティを通し、一人でも多くの方々と結びつき、共に楽しみ共に学び、「本物」にこだわりながら、よりよき文化を私たちの子供やこれから生まれ出る孫たちへと伝え残していく集合体になりたいと思っております。

倶楽部西陣・会員誓い 
私たちは「本物」にこだわり、よりよき文化を後世に継承していきます。

新工場を開設した理由

ある日共に技を競い合って来た上技物あられ屋が突然のれんをおろしました。それは日本一の技を持つと言っても過言ではない程の素晴らしい技を持つあられ屋でした。

店を閉めた話を聞くとその理由は「大手有名あられ、せんべいメーカーに潰された」との事でした。

少しあられ業界の事情をお話しますと、もともとあられ屋は家内工業でやっている小さい工場が多いのです。そして名の通った大手有名店は実際には製造されていない所が多く、その小さな工場に商品を作らせ、パッケージだけ代えて自社商品として販売されています。

大手有名店は販売力にものを言い、小さなあられ屋を苦しめます。

仕入れ値をたたくのは言うまでもなく、時には理由もない返品や、突然の販売中止を平気で行うのです。のれんをおろしたあられ屋も、注文された商品を製造したにも関わらず、購入の約束を破棄され、資金繰りが悪化したのだそうです。

本物の技・味を持つあられ屋がこうして次々と大手に漬されていくのです。私はそれを許す事ができません。又、大手メーカーが製造される場合は、オートメーションで効率化が進められると共に、無理な製造工程の短縮によって、さらにはあられには適さない外国米を用い安価な品を作り販売しているのです。

そのため、あられ、かきもちの価値が下がるとともに、人々のあられ、かきもち、せんべい離れが進み業界自体が縮小しているのです。

元来あられは正月に神様に供えられた鏡餅から由来し、日本三大随筆の一つとされる「徒然草」に登場する事からも、日本元来の菓子として、また上流階級の嗜好品として重宝されてきました。そしてその中でも上技物あられは皇族への迎品・献上菓子とされてきました。

しかしこのあられ屋の倒産により、日本の歴史から上技物あられという文化が消えてしまう危機におちいったのです。私は三日三晩悩み苦しみました。

菓匠宗禅では「本物の技・味を追求し後世により良き文化を継承する」を使命にかかげてきました。また私は、子供やこれから生まれでる孫たちの時代にオートメーションによる人間の手のかかっていない品ばかりしかないのでは心もとないと考えるのです。 

手作りの人の暖かみのある品。職人の技のある品を少しでも残してあげなければと。

そして私は自分の生涯をかけて、この上技物あられを継承していく事を決意したのです。

しかし、上技物あられを創り上げるためには、蒸籠蒸しに、杵つき、天日干しに焼き上げと、昔ながらの製法を必要とします。それは、今までよりもさらに大きな工場を必要としたのです。

そのため新工場を開設しなければならなく、又私どもにとって大きな投資となったのです。

周りの人々は皆、私の事を思い、反対しました。「商売がやっと軌道に乗ってきた今、なぜそんな無謀な事をするんだ?それに何故お前がやらなければならないのか?」と。しかし私は世の中からこのまま上技物あられが消えてしまうのを指をくわえて見ているだけで諦めるのは自分らしくない。たとえ失敗して全てを失ったとしても、精一杯自分の信じる道を生きてきこうと決めたのです。

そして現在、京西陣菓匠宗禅は日本唯一の上技物あられ処として、日々精進致しております。また職人としての私の夢であった宮家へ品を献上させていただけるようにもなりました。

大きな夢がかなった今、次なる私の目標は「あられの価値の復権」です。

あられは、ケーキ等の洋菓子に用いられる小麦粉よりも高価な餅米を主原料とします。

さらに上技物あられは一粒創りだすために、十日から十四日間という長い時間と手間がかかるのです。しかし悲しい事に、大手メーカーの安価な商品のために、あられは駄菓子のように扱われているのが現状です。私はあられの価値を本来あるべき所まで戻したいと考えています。せめて洋菓子と同じ土俵までには。

そのためにも菓匠宗禅はさらにこだわり尽くし、菓匠宗禅にしかできないあられを創り続けなければなりません。

それがあられ、かきもち業界全体を良くする事につながるとともに、またひとつ文化を継承する事に繋がるのだと考えます。これからも日本唯一の上技師としての責務を全うすると共に、新工場でさらに技を磨いていく所存でございます。

茶房にてしぐれせんべいを焼き続ける理由

京西陣菓匠宗禅本店では、毎日茶房にてあつあつ手焼き「しぐれせんべい」をお召し上がり頂いております。しぐれせんべいとは、サクッとした食感と、モチモチとした二つの食感を、一枚で味わって頂けるおせんべいであり、冷めると食感が変わる事からも、一切のお持ち帰りをお断りさせて頂いております。

しぐれせんべいは、「本物の焼きたての美味しさを
お召し上がり頂きたい」。また「あられ・せんべいがどのようにして作られるのかを皆様に知って頂きたい」との想いにより、毎日茶房にて焼き続けております。

観光地に行くと、焼きたてせんべいたる物が売られているのをよく目にします。しかしそれらのほとんどは既に工場などで焼かれたせんべいに醤油やタレをつけ、再度温めて香ばしい匂いを出しているだけで、本物の焼きたてとは言えないのです。

本物の焼き立てとは注文を頂いてから生地から焼き始める。だからこそ焼き上げた後、数秒しか味わう事が出来ない美味しさが楽しめるのです。

しかし生地から焼くとなると、お客様が居ても居なくても、たとえその日は一切注文が無かったとしても、釜の火を絶やす事は出来ません。なぜならしぐれせんべいを焼く事のできる状態まで釜の温度を上げる為には、釜に火を点けてから約半時間以上はかかるからなのです。更に誰でもすぐに焼けるものではなく、必ず私が直接、何度も指導を行い、技を習得したものしか焼く事が出来ません。とても不効率で有ります。

その為同業者の方から「あんな採算に合わない事をしてバカみたいだ」とののしられた事も有ります。しかし私どもは、誰に笑われ様ともそれをやめる事はありません。

なぜなら菓匠宗禅は「職人の意義が薄れていく社会において、本物の技・味を追求し、後世により良き文化を継承する」事を自ら課せられた使命として掲げているからなのです。「本当の手焼き、焼きたての味・香り・食感・色・形そして音に至るまで、出来たての本物全てを五感から感じて頂き製法の違い並びに美味しさの違いを伝え残したい」という想いを実現する為に、今日も西陣の町屋に焼きたてしぐれせんべいの香りが漂います。

店主 山本宗禅とは

私は昭和48年8月18日 かきもち・おせんべい屋の4代目として生まれました。

物心つく頃には職人気質の父や、先代から勤めている職人たちが働く工場の中で、毎日かきもちが焼きあがるのを見ては真似をし、小学校に入る頃には工場の一員として働いていまし
た。

その当時私は、周りの友達が外で遊び回っているにも関わらず、自分は工場で仕事を手伝っている事がとても嫌でなりませんでした。また休み無く働く父母
に、「小学校のクラスの中で、うちの家だけがどこにも遊びに行っていない」とか毎日遅くまで父や母が働く為、弟(山本章浩)と二人、祖母や親戚の家、時には友達の家に預けられたり、晩御飯を食べに行かされたりしていたこともあり「うちの家には、親が居ないんだ」とダダをこねて両親を悲しませた事もありました。
さらに弟は体が弱かった為、幼い私が電車とバスに乗り継いで、遠く離れた医者に弟を連れて行きました。医者に行くと毎回弟は、小さい手に3本の注射を打たれ泣きじゃくるのです。その時、私は「父や母は
現在、日本で唯一の上技師として
京のあられ・おせんべいを焼き続けるとともに、平成20年開店の京あられ専門カフェ「茶房 宗禅」の焼きアイス「五山の雪」をはじめ、西陣帯ロール、京パフェ織錦など、洋菓子の要素を取り入れた、まったく新しい独創的なメニューを次々に創作。さらに、京都の老舗料亭や食品メーカーに請われ、老舗料亭のオリジナルスイーツなどのプロデュースも手がけている。
子供より仕事の方が大事なんだ」と恨んだりもしました。
中学校に入ってからも、相変わらず仕事は続けていましたが、周りの人から4代目として見られるプレッシャーと寝る間も惜しんでこだわりのかきもち作りに精だす父の姿が、とても割りに合わない事ばかりに見え、馬鹿げていると否定し、「4代目なんか継ぐものか」と家を飛び出し、少しグレたりもしました。しかし高校に進学し、心底私の事を思い、私の為に涙まで流して下さる先生と出会い、改心すると共に世間の事を少し解りだし、父や母の苦労も理解できるようになりました。

そして進学を考える頃には「私が父の守り続けてきた味を継承するのだ」との考えになり、より一層商品研究に励むようになりました。その後大学を出て、2軒のおかき屋に修行に行き父の店に帰って来ました。それからは日々、新商品開発に全力を尽くしました。

その後、不況や大手メーカーの価格破壊の為に、次々と同業他社がつぶされると共に、職人の意義さえ薄れていく社会の風潮に危機感を募らせ、「本物の技・味を追求し、より良き文化を後世に継承する」事を自らの使命と掲げ、京西陣菓匠宗禅を独立創業しました。

そしてまた、上技物あられという最高峰の技を「私たちの子供やこれから生まれ出る孫達に残してあげたい」との想いにより、新工場を開設致しました。

その甲斐あり、お蔭様で日本で唯一の上技師となる事が出来ました。
周りの人達からは、「自分らしく生きる事を最も大切にし、一度言い出すと曲げる事の無い職人気質な性格だ」と言われています。

現在、妻(忍)・長女(麗花)・長男(聖也)の家族4人。
これからも、日々あられ創りに精進すると共に、時代に迎合するのではなく「文化」という二文字にこだわり続けていく所存でございます。

山本宗禅としての紋が出来上がりました。
この紋はコカコーラ社の「綾鷹」というお茶の紋を
デザインし、家紋デザイナーとして注目されている
沖のりこさんが私の想いを聞きいれ、何度も作り
変えながら出来上がりました、自慢の紋です。

「丸に抱剣、炎に蓮華升麻
(まるにいだきけん、ほのおにれんげしょうま)」

その想いは家族やスタッフそして会員様との繋がりがいつまでも丸く円満に。
二本の剣で新しい時代を切り開き、より良き文化を創造していく。
常に本物の味・技を追求し、職人技を磨き続ける。
熱く燃える炎心を持ち続けながら。
蓮華升麻の花ことばのように、伝統美を追い求め、より良き文化を後世に継承していけるようにと。
山本宗禅の名とこの紋が代々受け継いでいくことを夢見て。