菓匠 山本宗禅とは


私は昭和48年8月18日 かきもち・おせんべい屋の4代目として生まれました。

物心つく頃には職人気質の父や、先代から勤めている職人たちが働く工場の中で、毎日かきもちが焼きあがるのを見ては真似をし、小学校に入る頃には工場の一員として働いていました。

その当時私は、周りの友達が外で遊び回っているにも関わらず、自分は工場で仕事を手伝っている事がとても嫌でなりませんでした。また休み無く働く父母

に、「小学校のクラスの中で、うちの家だけがどこにも遊びに行っていない」とか毎日遅くまで父や母が働く為、弟(山本章浩)と二人、祖母や親戚の家、時には友達の家に預けられたり、晩御飯を食べに行かされたりしていたこともあり「うちの家には、親が居ないんだ」とダダをこねて両親を悲しませた事もありました。

さらに弟は体が弱かった為、幼い私が電車とバスに乗り継いで、遠く離れた医者に弟を連れて行きました。医者に行くと毎回弟は、小さい手に3本の注射を打たれ泣きじゃくるのです。その時、私は「父や母は

現在、日本で唯一の上技師として
京のあられ・おせんべいを焼き続けるとともに、平成20年開店の京あられ専門カフェ「茶房 宗禅」の焼きアイス「五山の雪」をはじめ、西陣帯ロール、京パフェ織錦など、洋菓子の要素を取り入れた、まったく新しい独創的なメニューを次々に創作。さらに、京都の老舗料亭や食品メーカーに請われ、老舗料亭のオリジナルスイーツなどのプロデュースも手がけている。

子供より仕事の方が大事なんだ」と恨んだりもしました。

中学校に入ってからも、相変わらず仕事は続けていましたが、周りの人から4代目として見られるプレッシャーと寝る間も惜しんでこだわりのかきもち作りに精だす父の姿が、とても割りに合わない事ばかりに見え、馬鹿げていると否定し、「4代目なんか継ぐものか」と家を飛び出し、少しグレたりもしました。しかし高校に進学し、心底私の事を思い、私の為に涙まで流して下さる先生と出会い、改心すると共に世間の事を少し解りだし、父や母の苦労も理解できるようになりました。

そして進学を考える頃には「私が父の守り続けてきた味を継承するのだ」との考えになり、より一層商品研究に励むようになりました。その後大学を出て、2軒のおかき屋に修行に行き父の店に帰って来ました。それからは日々、新商品開発に全力を尽くしました。

その後、不況や大手メーカーの価格破壊の為に、次々と同業他社がつぶされると共に、職人の意義さえ薄れていく社会の風潮に危機感を募らせ、「本物の技・味を追求し、より良き文化を後世に継承する」事を自らの使命と掲げ、京西陣菓匠宗禅を独立創業しました。

そしてまた、上技物あられという最高峰の技を「私たちの子供やこれから生まれ出る孫達に残してあげたい」との想いにより、新工場を開設致しました。

その甲斐あり、お蔭様で日本で唯一の上技師となる事が出来ました。
周りの人達からは、「自分らしく生きる事を最も大切にし、一度言い出すと曲げる事の無い職人気質な性格だ」と言われています。

現在、妻(忍)・長女(麗花)・長男(聖也)の家族4人。
これからも、日々あられ創りに精進すると共に、時代に迎合するのではなく「文化」という二文字にこだわり続けていく所存でございます。

山本宗禅としての紋が出来上がりました。
この紋はコカコーラ社の「綾鷹」というお茶の紋を
デザインし、家紋デザイナーとして注目されている
沖のりこさんが私の想いを聞きいれ、何度も作り
変えながら出来上がりました、自慢の紋です。

「丸に抱剣、炎に蓮華升麻
(まるにいだきけん、ほのおにれんげしょうま)」

その想いは家族やスタッフそして会員様との繋がりがいつまでも丸く円満に。

二本の剣で新しい時代を切り開き、より良き文化を創造していく。
常に本物の味・技を追求し、職人技を磨き続ける。
熱く燃える炎心を持ち続けながら。
蓮華升麻の花ことばのように、伝統美を追い求め、より良き文化を後世に継承していけるようにと。
山本宗禅の名とこの紋が代々受け継いでいくことを夢見て。