あられ、おかきの歴史 | 京西陣 菓匠 宗禅
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あられ・餅・おせんべい

あられ、おかきの歴史

宗禅 風通(ふうつう)

まずはかきもちの名の由来を紹介すると、かきもち(欠餅)は正月に供えられた鏡餅からとされ、正月の11日の鏡開きにお下げした鏡餅を食す際、餅に刃物を入れて切ること忌み嫌い、餅を手で欠いた(割った)ことから、手で欠いた餅、かきもちと呼ばれるようになったとされております。

おかきはかきもちの女房詞(にょうぼうことば)で、お米や、お茶のようにおかきもちから餅が省略されおかきと呼ばれるようになりました。つまりかきもちとおかきは同じものです。一般的にかきもちは5センチ以上の大判のものをさし、製造過程において、搗いた餅をのし箱(四角に形作った木箱)に入れて固め、四角に固まった餅を切り、焼き上げることから、かきもち、おかきは四角いものが多いのです。

あられはかきもちに比べて小さなものを指し、丸く細かに焼きあがったものが、冬の空から降ってくる霰に似ていたことや、煎るときに音をたて跳ね上がる様子が霰に似ていたことからあられと呼ばれるようになりました。

あられ、かきもちの歴史は古く鏡餅の由来をみると、紀元前の垂仁天皇の時代、大物主神(おおものぬし)の娘である大田田根子(おほたたねこ)に大国主命(おおくにぬしのみこと)が「元旦、荒魂の大神に紅白の餅を祭れば幸福が訪れる」と教えられたことから始まると伝えられています。

また応神天皇の御代(300年代)に初めて餅を作ったとのことで米餅搗(たがねつき)の姓を賜ったとされる米餅搗大使主命(たがねつきおおかみぬしのみこと)を祭った神社が滋賀県にあり、この小野神社は餅の神様とされております。

縄文時代末期から弥生時代にかけ、農耕技術が伝わり、穀物の生産が増加するにつれ、穀物の加工が始まりました。籾(もみ)のまま米を焼いた「焼き米」や炊いたご飯を天日で乾かした「ほしいい」のような簡単なものから、少し高度な「餅」や「だんご」まで作られ常食用としてのみならず、嗜好品としての間食用としても用いられ、これらが今日の和菓子の起源となったとみられます。

米菓業界では奈良時代(800年代)に五穀豊穣祈願のため、糯米を神前に供えた後、土皿でこれを焙って食されたことがあられの起源とする説もありますが、私はそれ以前から賀儀の際に感謝の意を込め、ひと手間掛けて作り上げた餅を神に供えられていたことや、「ほしいい」の天日乾燥の技術、「焼き米」の煎る技術がすでにあったことから考えると、名称はまだなかったにせよ、あられは大陸文化の影響を受けることの無い、上古時代よりの菓子であり、現在の菓子のなかでも数少ない、我が国元来の伝統的菓子であると考えるのです。

平安時代の書物には「あられ餅」や「玉あられ」という名が見られます。徒然草にでてくる「かいもち」も「かきもち」だったのではないかと考えるのです。
当時、貴重であった糯米(もちごめ)を用いて餅を作り、神に奉納することのできるのはある程度の身分または裕福な家柄であり、だからこそあられ、かきもちは上流階級の食物であったと私は考えます。

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江戸時代になるとあられやかきもちにするための餅が作られるようになります。「よう州府志(ようしゅうふし)」には餅を薄く切り、影干しにし、遠火で焙り作られた圓山かきもちが紹介されております。これを見るとこの頃には現在の製法がすでに確立していたことが分かるのです。
明治から大正年間に入ると米菓の需要が増え、大衆菓子として親しまれるようになります。

あられ、かきもちの主原料である糯米の生産地が関西や九州に多いためあられ、かきもちは関西に、粳米(うるちまい)を主原料とするせんべいは関東圏の食文化として拡がります。
その中であられ、かきもち職人はその技を競い、細かなあられから形の施したあられを作り出します。そしてあられの中でも三つに区別されるようになるのです。

従来のような四角に切って焼いただけのあられを並物(なみもの)あられ(弊店の紬)。花びらや魚の形を抜き取ったあられを上物(じょうもの)あられ(弊店の桜や輪に抜いたあられ)。そして形を抜いた餅生地の一枚一枚に絵柄を細工し、焼き上げたときにあられに紋様を浮かび上がらせるという、最も高度で難しいたされる上技物(じょうわざもの)あられ(弊店の亀や鶴のあられ)にと。

そして今現在、この上技物あられを唯一製造しているのが菓匠 宗禅のみとなりました。

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