秘伝の味と造形の技術を一子相伝で受け継ぐ日本唯一の「上技師」
幼きころから工場に入り、あられ造りを叩き込まれる日々 。時には泣き叫ぶこともありました。
昭和48年8月18日 かきもち・おせんべい屋の4代目として生まれた山本宗禅。
物心つく頃から職人たちが働く工場の中で、毎日かきもちが焼きあがるのを見ては真似をし、小学校に上がるともう工場の一員として働いていました。
周りの友達が外で遊び回っているのに、自分は工場で仕事を手伝っている。
当時はそれがとても嫌でなりませんでした。
休み無く働く父母に、
ある時は「小学校のクラスの中で、うちの家だけがどこにも遊びに行っていない」と、
ある時は「うちの家には、親が居ないんだ」と
泣き叫んでは困らせたものでした。
さらに体が弱かった弟を遠く離れた病院へ電車を乗り継いで連れて行きました。
毎回、弟は小さい手に3本の注射を打たれ泣きじゃくるのです。
「父や母は子供より仕事の方が大事なんだ」とその時は子供心に恨んだりもしました。
上技の跡取りとしてのプレッシャーに押しつぶされ。自暴自棄に。
中学校に入ってからも相変わらずの日々でしたが、
周りの人からはすでに4代目として見られ、そのプレッシャーにくじけそうになりました。
寝る間も惜しんで、どこまでもできあがりにこだわってかきもち作りに精をだす父の姿が、とても割りに合わない事に見え、馬鹿げていると否定するまでになってしまいました。
「4代目なんか継ぐものか」と家を飛び出し、少しだらしのない生活を送ってしまったりもしました。
自分を見失いかけた時、心を支えてくださる人に出会いました。
そんな私でしたが、高校に進学して幸運にも大きく成長を得る機会に恵まれました。
素晴らしい先生に出会うことができたのです。
その先生は、私の事を心の底から思い、私の為に涙まで流して下さる方でした。
その出会いを通じて私は、社会に生きるひとりの人間としての心がけや、父、母の苦労も多少なりに理解できるようになりました。
進学を考える頃には「父の守り続けてきた味を継承し守っていくのは自分しかいない」との考えに至り、
より一層、技術や商品の研究に励むようになりました。
その後大学を出て、二軒のおかき屋に修行に行き、父の店に帰って来ました。それからは日々、新商品開発に全力を尽くしました。
業界全体の危機に見舞われた時に気付いた「自ら背負うべく使命」
その後、不況や大手メーカーの価格破壊の為に、次々と同業他社がつぶされると共に、職人の意義さえ薄れていく社会の風潮に危機感を募らせ、「本物の技・味を追求し、より良き文化を後世に継承する」事を自らの使命と掲げ、京西陣菓匠 宗禅を独立創業しました。
さらに、上技物あられという最高峰の技を「私たちの子供やこれから生まれ出る孫達に残してあげたい」との想いにより、新工場を開設致しました。
一子相伝のあられ造りの奥義を受け継ぐ日本で唯一の「上技師」として。
その甲斐あり、お蔭様で、代々ただ一人の者にしか伝えられない匠の技の極意、奥義を先代より受け継ぎ、日本で唯一の上技師となる事が出来ました。
「自分らしく生きる事を最も大切にし、一度言い出すと曲げる事の無い職人気質な性格だ」と周囲から言われています。
どうやら、あられ造りにとことんこだわる先代の気質の方も、いつのまにか受け継いでしまったようです(笑)。
現在、妻・長女・長男の家族4人。これからも、日々あられ創りに精進すると共に、時代に迎合するのではなく「文化」という二文字にこだわり続けていく所存でございます。